20200117

あの震災から25年

阪神淡路大震災から25年目の冬を迎えました。

 

この日が近づくと新聞やテレビは今でも震災のこと、その後の復興・問題点を特集し、いやがうえでも1995年の出来事を思い出さずにはいられません。

 

当時19歳だったぼくは阪急夙川駅近くの実家で震災に遭いました。家は2階が崩れ落ち、到底住むことが出来なくなりました。

家族全員に怪我がなかったのが奇跡だと思えるような惨状。

街に目を向けると多くの家が倒壊し、漏れたガスのにおいが充満し、電車が通らなくなった線路は静寂でした。建物が倒壊したときに舞い散った粉塵は目には見えないけれどその不快感を今でもありありと覚えています。

そこからの毎日はどう過ぎて行ったのか今となっては詳しくは思い出せません。水や食料を持って来てくれた親せきや友人がいたりと多くの人の好意があって希望を持てていた気がします。

「○○くんの家のお父さんが亡くなったらしい」そんな話もよく耳にしました。でもそれは何だか現実ではないような気がしました。長田に住んでいた友人の家に火が迫って来たとき、身の回りの物を持ち出すのが必死で飼っていた金魚をそのまま置いていかざるを得なかったという話を聞いて悲しく思ったりしていました。

 

今になって「○○くんの家のお父さんが亡くなったらしい」という会話をよく思い出します。

 

その時は心が付いていかなかったけど、時間が経って、ぼくも父親になって、子供から見た父親の存在、そして不在を現実として思い浮かべることができます。

父親を亡くした友人や家族の悲しみ。そして不意に自分の命を絶たれた父親の無念さ・・

(ぼくも父親。その亡くなった方がどれほど悔しかったことかを想像してしまいます)

 

いかに震災が人の日常生活を断ち切ったのかを想像できます。亡くなったのは6000人を超える人、そのすべての人に希望があって家族があったと思うとどれほどの災いだったのかということを今になって思い知ります。

 

震災を超えて生きてこれたぼくたちにできることは、まずその悲惨さ、悲しみを次の世代に伝えること、そして悲しくも亡くならざるを得なかった人たちの分まで精いっぱい生きること。そう改めて思います。

1月17日はぼくにとって命について考える日でもあります。

 

 

河田洋祐